「辺野古」より「南丹」を追うオールドメディア。船の模型は作らないのか。BPOにも届いた報道不信の声。

京都府南丹市の事件を連日大きく報じながら、辺野古沖転覆死亡事故については驚くほど低調な報道しか行わないオールドメディア。
産経新聞の記事を通して、遺族の直接発信、SNS時代の情報伝達、テレビ報道の恣意性、そしてメディア不信の深まりを考える。
なぜ、普段なら得意の模型や現場演出を駆使するテレビが、辺野古事故では沈黙したのか。
日本国民全員が読むべき、現代メディアの本質を問う論考である。

「辺野古」より「南丹」のオールドメディア、船の模型は作らないのか BPOにも届く批判 メディアウオッチ 皆川豪志 – 産経ニュース

以下は、産経新聞の購読者である私も読まずにいた日の記事である。
日本国民全員が必読‼
見出し以外の強調は私。

京都府南丹市で行方不明の小学生が遺体で見つかった事件は、養父の逮捕という衝撃的な結末を迎えた。
特にテレビは、捜査に動きがない日も連日ヘリを飛ばして現場の様子を延々と伝え、「捜査員が歩いています」などと、あまり意味があるとは思えない報道を相当な量で繰り返していた。

一方で、沖縄県名護市辺野古沖の転覆死亡事故をめぐる報道は、産経新聞を除いて相変わらず低調だ。
放送倫理・番組向上機構(BPO)のホームページにも、視聴者から多かった3月の意見として「辺野古事故について放送局全体で報道する回数が少ないのではないか」と紹介されている。
どちらも若く尊い命が奪われた事案であり、その重みに差があるはずはない。

転覆事故で死亡した同志社国際高校2年の女子生徒の遺族はSNS上の「note(ノート)」やユーチューブで情報発信を継続的に続けている。
当日からの詳細な記録、学校側の対応など事故そのものに関することだけでなく、お嬢さんの幼いころからの写真のアップや思い出などもつづられており、涙なしには読めない。

ただ、報道の中には、同校の「平和学習」に触れた部分や、「抗議船」に乗せてしまった遺族の後悔など、事故の背景に触れた文章をあえて削って伝えたメディアもあった。
発信自体をようやく報道したところもある。
何を報じるかは各社の自由だが、事故の異質さを共有し、時間とともに風化させたくないという遺族の思いに応えているとはとても思えない。

一部メディアは、当事者自らがSNSを通じて情報発信することを快く思っていないようにも見える。
政治家などの投稿も含め、自分たちの「フィルター」を通さず、直接伝えられることは都合が悪いのだろうか。

メディアは信用されていない。
遺族の投稿で、はっとさせられたのが、報道関係者などに対し、次のように訴えていることだ。
「発信内容、写真は報道で利用して問題ありません」。
「娘の個人情報に関しては他の方への取材で得ることは控えていただきたい」。

これは、メディアに籍を置くものとしては、よくよく考えなければならない言葉である。
事件や事故で無遠慮に取材を繰り返し、周辺にも拡大していく。
そこで誰が話したのかもわからない情報が「事実」として一人歩きすることは遺族として絶対に避けたいという強い意志を感じる。
つまり新聞やテレビはほとんど信用されていないのだ。

一方で、より広く報じられる「マスメディア」の特徴を通じて、遺族の思いを伝えてほしいという複雑な心境も感じられる。
あるいは、大半のメディアが報道しにくい事案になると最初から想定した上で、正確な記録を残しておこうと考えたのだろうか。

noteの文章は非常に冷静かつ論理的であり、「事実」は関係先に確認できたものにとどめ、遺族自身の心境や主張とは明確に分けて書いている。
感情をできるだけ抑えている分、余計に無念さが伝わってくる。

SNSの普及により、「当事者」が世論に向けて直接発信するケースは今後もさらに増えていくとみられるが、メディアにとってはあまり面白くないのだろう。

例えば、高市早苗首相の情報発信をめぐって「Xによる発信ばかりで、記者会見やぶら下がり取材が少ない」。
「メディアの追及を避けている」などの批判が目立つ。

もちろん首相会見などの回数は少ないよりは多いほうが良いだろう。
自身に有利になりがちな一方的な発信よりも、第三者の質問や追及を受けたほうが真実に近づく場合もある。
ただ、当事者が直接発信した以上の内容を取材によって引き出したり、追及したり、それを正確に発信したりできる力量を持ったメディアがそれほど多いとは思えない。

むしろ「実際に述べたこと」と「報じていること」の違いがSNSや動画などで明らかになってしまうことで、安易な「切り取り」や「角度のついた」報道がしづらくなっていることを憂いているようにすら感じられる。

マスコミ論にも一石を投じる行動。
事の性質は違うかもしれないが、一部メディアは、遺族がnoteで発した震えるような声すら、自分たちに都合がよいように利用していると見られても仕方がない。

すでに新聞やテレビなどを介さずとも、遺族の思いは世間に伝わり始め、事実関係も発信できている。
同時に情報提供も呼びかけることで、真相究明の一端をも担おうとしている。
本来ならメディアがやるべきことを遺族が率先して行っているのだ。

過去、事件や事故の遺族とメディアの関係は何度も議論になり、記者が殺到することによる報道被害なども含め大学のマスコミ論などのテーマにもなってきた。
今回の行動は、そうした議論にも一石を投じているのではないか。

ではメディアは何をするべきなのか。
遺族にはできない取材で真相を明らかにすることしかない。
事故原因そのものについては捜査当局に任せなければならない部分もあるとは言え、まだ解明されていないことは多々ある。

抗議船に乗せるような「平和学習」をなぜ学校側が続けてきたのか。
だれの責任なのか。
同じようなケースは他の学校でもあるのか。
抗議船を運航していた「ヘリ基地反対協議会」とはどのような団体で、なぜ日ごろから順法意識が低いと見られるような行動を続けてきたのか。
そして、なぜ、そのような活動が許されてきたのか。
いずれの当事者も、わずかな記者会見を除けば、自らの情報発信などほとんどしていない。

これは、船を運行していた団体の思想性とは関係ない。
積極的に情報発信する側の声を伝えなかったり、意図的に切り取ったりするくらいなら、やるべきことは他にあるということだ。
SNS時代の大手メディアは、個人の情報発信を一概に軽視するのではなく、その分の取材力を「発信されない情報」にこそ向けるべきではないか。

南丹事件ではお得意の模型。
事件や事故の被害者や遺族が最も恐れるのは、真相が解明されないまま風化していくことである。

メディアが「○○事故から○カ月」のようなニュースを大切にしたり、「未解決事件」のような番組で世論の関心を留めようとしたりする意義は、そのためにもあり、メディアがやれることは、まだまだあるのだ。

テレビのニュースショーやワイドショーなどでは、発生直後に現場を再現した模型を手際よく作ったり、現場に記者が入って視覚的に訴えたりすることがよくある。
これも視聴者に強い印象を残すためのテレビ的演出であり、メディアにしかできないことでもある。

本来であれば辺野古の事故は、「平和丸」「不屈」と書かれた実寸大の船の模型に番組キャスターたちが乗り、「こんな小さな船に10人以上も乗せたなんて信じられない」と顔をしかめて批判しなければならないはずだ。
現場近くの海域に小型ボートなどを浮かべて、若いアナウンサーが「すごい揺れです」。
「とても立っていられません」などと声を張り上げていても不思議ではない。

悲しみに暮れる遺族にとっては大げさな演出に映るかもしれないが、普段は当たり前のようにやっているのに今回はあまり見た記憶がない。
「事故を風化させない」というテレビなりに力を入れてきた手法すらすっかり影を潜めているのである。

事故から1カ月を伝える今月16日の新聞各紙も、1面トップと社会面トップで伝えたのは産経新聞だけで、毎日新聞は社会面2段の記事だけだった。
テレビは南丹市の事件で養父が逮捕されたことに色めき立ち、お得意の模型を作って事件の行方をほぼ一日中解説していた。

「辺野古事故の報道回数が少ないのではないか」。
冒頭のBPOに寄せられたような意見はSNS上にも無視できないほどの勢いで殺到している。

メディアに対する不信感はより一層可視化されやすくなった。
SNSのない時代であれば、新聞やテレビが伝えないことで事故の真実は追及されなかったかもしれないし、遺族の声もここまで世論に届かなかったかもしれない。

遺族取材のあり方も含めて、今回の事故は、後にオールドメディアの大きな岐路だったと振り返る日が来るような気がする。

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