永山則夫――果物店では接客を要領よくこなし、常連客には女優の岩下志麻もいた

永山則夫について、ウィキペディアの記述をもとに、その生い立ち、極貧とネグレクト、母親との別離、集団就職後の東京での果物店勤務、そして職と住所を転々とする青年期までを紹介する。連続ピストル射殺事件の元死刑囚であり、同時に獄中で創作活動を続けた小説家でもあった永山則夫の前半生をたどる。

2020-06-17
身長が160cmほどと小柄な体格で、目が大きく、北海道育ちのため「東北弁コンプレックス」もなく、果物店では接客を要領よくこなしていた。
同店の当時の常連客には女優の岩下志麻もいた。

永山則夫について、ウィキペディアより。
文中強調は私。
永山則夫、ながやまのりお、1949年6月27日 – 1997年8月1日は、1968年から1969年にかけて連続ピストル射殺事件、警察庁広域重要指定108号事件を引き起こした刑死者、元死刑囚である。
北海道網走市生まれ。
明治大学付属中野高等学校定時制中退。

1969年の逮捕から1997年の死刑執行までの間、獄中で創作活動を続けた小説家でもあった。
1983年、小説『木橋、きはし』で第19回新日本文学賞を受賞。
北海道網走市呼人、よびと、番外地に、8人きょうだいの7番目の子、四男として生まれる。
3歳のとき、一家で郊外の呼人から市内中心部に引っ越す。
父親は腕のよいリンゴの枝の剪定師だったが、稼ぎの大半を博打につぎ込み、家庭は崩壊した状況で、現在で言うネグレクトの被害者であった。
母親代わりの長姉は、婚約破棄や堕胎から心を病み、地元の精神科病院に4年間入院。

1954年、当時5歳に、母親が青森県北津軽郡板柳町の実家に逃げ帰ってしまう。
自分の子供達全員分の汽車賃までは用意できず、則夫を含む4人の子を網走に残したままの家出だった。
後に書かれたノートでは母親はこれを悔いている。
残された則夫を含む4人のきょうだいは、漁港で魚を拾ったり、ゴミ箱を漁ったりして極貧の生計を立てていたものの、年少の則夫は始終兄や姉たちから虐待を受けていた。
しかし、1955年、近隣住民が福祉事務所に通報したのをきっかけに、4人は板柳の母親の元に引き取られた。
その後、母親は行商で生計を立て、きょうだいを育てた。
また、それ以降も則夫は板柳中学時代に、函館と福島に家出をしている。

1965年3月、板柳から東京に集団就職する。
渋谷の高級果物店に就職した。
身長が160cmほどと小柄な体格で、目が大きく、北海道育ちのため「東北弁コンプレックス」もなく、果物店では接客を要領よくこなしていた。
同店の当時の常連客には女優の岩下志麻もいた。
やがて新規店を任される話が持ち上がるほどの信用を得る。
しかし、板柳にいた時期に集団就職のための衣類を盗んでおり、そのことを店長が知ったと思い込み、自身が耐えられなくなり、わずか半年で退職した。
また、この果物店に務めていた頃、勤務先の近くで少年ライフル魔事件が起き、これを目撃している。
果物店を退職後、香港へ密航を図るも失敗。
栃木県小山市に住んでいた長兄に引き取られ、宇都宮市の自動車修理工場で働く。
市内の肉屋で窃盗を働き捕まったが、宇都宮家裁で不処分となった。
その後も宇都宮市の牛乳配達店、守口市の米屋、羽田空港の「東京エアターミナルホテル」、寮は川崎市、など職と住所を転々とする。
ホテルで働き始めた3か月後、横須賀米軍基地で窃盗を働き、保護観察処分となる。
保護司の紹介で川崎市のクリーニング店で働くも、1か月で辞める。
この稿続く。

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