「春秋に義戦なし」――大東亜戦争と東京裁判を複眼で見直す
「春秋に義戦なし」という言葉が示すように、国際戦争において一方だけが絶対的に正しく、他方だけが絶対的に不正であることは、まずあり得ない。
平川祐弘氏の論文から、大東亜戦争を「反帝国主義的帝国主義」の戦争として捉える視点、12月8日の国民感情、「大東亜戦争」という名称が占領下で禁じられた背景、山下奉文、本間雅晴両将軍に対する報復裁判の問題を紹介し、東京裁判史観を複眼的に問い直す。
2020-06-22
「春秋に義戦なし」とは名言で、国際戦争には、一方が絶対に正義で、他方が絶対に不正という場合は、まずあり得ない。
月刊誌『正論』今月号には、読み残している箇所がたくさんあった。
今朝、平川祐弘さんの連載を読んでいた。
長文である。
その時に、これは今の中国そのものだな、と思った箇所があった。
最後に平川さんがまとめて掲載している註の中には、私の思いが正鵠を射ていたことを証明する箇所があった。
本稿では、それらの箇所と、日本国民全員が知るべき箇所を抜粋してご紹介する。
平川さんの論文は、日本国民のみならず、世界中の人たちが必読である。
春秋に義戦なし
前文省略
日本が戦ったあの戦争は、「反帝国主義的帝国主義」の戦争だったと、私は考える。
世界史的には、後発の「持たざる国」の、先進の「持てる国」への挑戦だったともいえる。
また、アジアに植民地を持ちはするが資源に乏しい、黄色人種の一帝国日本の、アジアに植民地を持つ白人の豊かな大帝国連合による既成秩序への挑戦だったとも考える。
そして、日本は敗れた。
「春秋に義戦なし」とは名言で、国際戦争には、一方が絶対に正義で、他方が絶対に不正という場合は、まずあり得ない。
――そのような「大東亜戦争」と東京裁判について、いかなる見方が適当か。
私は、戦争や、それに引き続く別次元での戦争であった東京裁判などについて、さまざまな局面を明確化するよう、資料を引いて語りたい。
読者の理性にも感性にも働きかけることで、その資料の内在的な価値によって、おのずと結論が抽き出されるようにしたい。
それによって、新しい歴史の視野を示すことができるかどうか。
外国人の読者が何と言うであろうか。
私は、その反応にも期待している。
12月8日
日本にとって、12月8日に始まった「あの戦争」註1とは、何だったのか。
太平洋戦争か。
それとも大東亜戦争か。
あるいは、そのいずれかに割り切ること自体が間違いなのか。
過去の大戦について、西洋本位でもなく、日本本位でもない、よりバランスのとれた歴史上の位置づけを、インドなど第三国からの視点も含めることで、試みたい。
複眼で過去を振り返るのが、私のアプローチである。
もとより、私論に過ぎない。
個人的な思い出も交えさせていただく。
1931(昭和6)年7月生まれの私は、小学校4年生の時、12月8日を迎えた。
1941(昭和16)年、師走の月曜日の帝都の空は晴れていた。
朝7時のニュースで、日本が米英と西太平洋で交戦状態に入ったことを知り、学校に向かった。
電車の中で、向かいに座った日本人乗客の緊張した顔が、美しく見えた。
「いま神明の気はわれらの天と海とに満ちる」。
詩人・高村光太郎が詠った、そのような気分は、子供心にも感じられた。
そして、その直後から、戦争は「大東亜戦争」と呼ばれたのである。
日本軍の中国大陸における長期にわたる戦争には、大義に欠ける面があった。
終わらない支那事変に、多くの人が嫌気を感じていた。
そして、汪兆銘のように日本側につく人がいただけに、蒋介石が抗日的であるのは、背後に英米がいるからだと思われていた。
そのような認識だったからこそ、同じ戦争でも、支那事変とは違い、12月8日以後の日本は、米英という真の敵との戦争であり、それはアジア解放のための大東亜戦争として、大義名分を持ち得るかに思われたのである。
その時の国民感情は、
5年間我が日本に立ち籠めし 雲を払ひし大詔を読む
新しき修理固成の時は来ぬ 有色の民に所得しめて
の歌にもうかがわれる。
植民地帝国である白人列強を相手にした戦争であるならば、感情的にすっきりしたことを、日本海軍航空隊の市丸利之助司令官は歌に詠んだのである。
高村光太郎は、緒戦の勝利に興奮した。
ハワイに大艦隊を即刻滅ぼし
マライ沖に沈まざる巨艦を沈め、
岩とベトンと深謀遠慮の香港を降し、
マニラをたいらげて呂宋の昔にかへし、……
鉄で固めたシンガポールをみりみり潰した
太平洋戦争か大東亜戦争か
だが、日本の圧倒的優勢は、それまでだった。
1945(昭和20)年8月の敗戦。
そして、それに引き続くアメリカ軍の日本占領。
しばらくすると、「大東亜戦争」の名は消され、「太平洋戦争」となった。
その変化の背後に占領軍の意向が働いていることは、中学2年生にも分かった。
「太平洋戦争」という呼び方は、アメリカ側で“the Pacific War”あるいは“War in the Pacific”と呼ぶからでもある。
しかし、日本人に「大東亜戦争」、“Greater East Asia War”とそのまま言わせておくと、日本が大東亜解放のために戦ったという、義戦の面が表に出る。
それでは、連合国側、特に植民地を戦前のまま維持したい諸国にとっては都合が悪い。
それで、「大東亜戦争」という用語の使用を禁じたのである。
日本軍は、南方諸地域で、植民地支配者である白人列強を一度は打破した。
米英仏蘭の諸国は、傷つけられた権威を回復するためにも、現地人への見せしめのためにも、敗れた日本軍の将兵を戦争犯罪人に仕立てねばならなかった。
シンガポールを陥落させた山下奉文将軍を、開戦記念日の12月7日に絞首刑に処すと判決し、マニラを陥落させた本間雅晴将軍を銃殺刑に処すとしたのは、罪名は何であれ、復讐裁判の側面が露骨に出たといえよう。
その非は、ライシャワー博士なども認めている。
註2
ローレンス・テイラー『将軍の裁判 マッカーサーの復讐』立風書房、1982年。
原題は“A Trial of Generals”。
日本語版の裏表紙にあるライシャワーの言葉を抄すると、次の通り。
……軍事法廷で裁かれた山下および本間と並んで、本書ではマッカーサー将軍も裁かれている。
二人の日本人将軍が、いずれも率直で、正直で、高貴でさえあったことが明らかにされている。
そしてマッカーサーについては、その二重人格の陰の部分が浮き彫りにされ、彼がいかに狭量で、もったいぶった、そして復讐心にとらわれた人間であったかが示されている。
本書では、また、アメリカの正義、すなわち裁判も裁かれているのである。
そして、最終的に敗れ去ったのは、アメリカの正義であったことを証明している。
南方各地で多くの日本人が処刑された間は、8月15日以後も、まだ戦争は続いていたのである。
――そして、この戦後の戦争で、一部日本人の心ない態度が表に出た。
本間中将の令嬢が、助命運動への署名を求めて街頭に立った。
すると、ある新聞に、そのような振る舞いに出た令嬢を非難する投書が掲載されたのである。
この稿、続く。