プロコフィエフ交響曲第7番「青春」――早朝の中之島薔薇園にふさわしい音楽
プロコフィエフ交響曲第7番「青春」解説
プロコフィエフの交響曲第7番 嬰ハ短調 op.131は、彼の最後の交響曲である。
1952年に完成された晩年の作品で、日本ではしばしば「青春」と呼ばれる。
この題名が示す通り、曲全体には若々しさ、透明感、懐かしさがある。
しかし、それは単純に明るいだけの青春ではない。
晩年のプロコフィエフが、過ぎ去った青春を遠くから見つめているような音楽である。
第1楽章は、やわらかな叙情から始まる。
どこか夢見るようで、同時に少し寂しい。
明るさの奥に、すでに回想の影がある。
青春とは、ただ現在の輝きだけではない。
後から振り返った時に、初めてその光の意味が分かるものでもある。
第2楽章は、ワルツ風の楽章である。
プロコフィエフらしい軽やかさ、洒落た運動感、少し皮肉な表情が現れる。
ただ陽気なだけではなく、都市的で、どこか儚い。
足取りは軽い。
だが、その軽さの奥には、過ぎ去る時間への微かな不安がある。
第3楽章は、静かで歌うような楽章である。
この曲の中でも特に美しい部分で、晩年のプロコフィエフの澄んだ叙情がよく表れている。
青春の思い出を、静かに見つめ直しているような音楽である。
ここでは、音楽は声を張り上げない。
むしろ、遠くにあるものを、壊さないようにそっと見つめている。
第4楽章は、明るく動き出す。
外面的には快活で、若々しいエネルギーを持っている。
しかし最後に近づくにつれ、この曲全体が単なる明るさだけではないことが分かってくる。
この交響曲には、最後に二つの結末があることで知られている。
一つは、静かに消えていくような本来の結末。
もう一つは、より華やかに終わるために付け加えられた結末である。
どちらを採るかによって、作品の印象は大きく変わる。
静かな終わりなら、青春は遠い記憶として消えていく。
華やかな終わりなら、青春は最後にもう一度、光を放って閉じられる。
いずれにしても、この曲の本質は、若さそのものよりも、若さを見つめるまなざしにある。
だから、早朝の中之島薔薇園に合う。
朝の薔薇は、満開でありながら、まだ一日の喧騒に触れていない。
都市の中心にありながら、そこには一瞬だけ、清らかな静けさがある。
2026年5月16日。
私は目覚めて快晴を確認し、日の出時刻を確認し、すぐにタクシーで中之島薔薇園へ向かった。
撮影を始めたのは、朝5時半頃だった。
あの時間の薔薇園には、昼間の薔薇園とはまったく違う美があった。
光はまだ若く、空気は澄み、薔薇は一日の始まりの中で静かに咲いていた。
しかも、この写真集は、撮ったままの記録ではない。
最終写真集として仕上げるにあたり、不要無用のビルの看板等は、可能な限りすべて消した。
それは、都市の中にある薔薇園を、余計なものから解放するためである。
画面の中では、薔薇と光と空気だけが主役でなければならない。
その思いで仕上げた作品である。
プロコフィエフ第7番「青春」は、その時間のための音楽として、非常にふさわしい。
それは、若さをただ賛美する音楽ではない。
若さの光を知り、その儚さも知った者が、遠くから青春を見つめる音楽である。
早朝の中之島薔薇園もまた、同じである。
そこには、満開の薔薇の華やかさがある。
しかし同時に、朝の静けさ、都市の一瞬の沈黙、そして二度と戻らない時間の透明な輝きがある。
だから、この写真集にはプロコフィエフの「青春」が合う。
小澤征爾指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による演奏であれば、なおさらである。
早朝5時半の中之島薔薇園。
快晴。
日の出の光。
満開の薔薇。
そして、プロコフィエフ晩年の「青春」。
この二つが出会った時、単なる薔薇園の写真集ではなく、ひとつの時間の記録になる。
私は、その時間を作品として残したかった。