「リベラルの功罪」とアメリカの失敗――日本は全体主義的な息苦しさとメディアの印象操作を繰り返してはならない
2018-05-09
アメリカにおける「リベラル」という言葉の変質と、自由や寛容を掲げながら異論を許さない息苦しい社会が形成された過程を論じる。
2016年アメリカ大統領選挙における大手メディアのヒラリー・クリントン支持、反トランプ報道、私用メール問題を通じ、日本がアメリカの失敗から学ぶべき教訓を問う。
以下は前章の続きとして過去に発信した章を、文章上の誤りを修正し、現在の日本にとっても極めて重要な論考として再発信するものである。
自由や寛容を掲げていたはずの思想が、いつの間にか異論を封じ、社会全体に息苦しさをもたらすものへと変質することがある。
日本人は、アメリカで既に起きた失敗を遠い国の出来事として眺めるのではなく、自分たちの社会に同じ現象が起きていないかを考えなければならない。
アメリカと同じ道を辿るな
もともとアメリカでは、宗教的な戒律を重んじる生き方を「保守的(コンサーバティブ)」と呼んだのに対して、「わがまま」を主張したい人たちの発言や行動が「リベラル」とされていた側面があります。
しかし現在では、少数者の権利を声高に主張し、彼らへの福祉政策を重視する立場を指すことが多くなっています。
そのような人たちの活動が行きすぎて、かつては「リベラル=自由主義的」という意味合いだったものが、いまでは、ともすれば「リベラル=全体主義的」というニュアンスを連想せざるを得ない、とても息苦しい状況を招いているのです。
前掲の『リベラルの毒に侵された日米の憂鬱』という題名が示すとおり、アメリカでは、「リベラル」という言葉が、本来の「自由な」「寛大な」「開放的な」「度量の大きい」「偏見のない」といった意味から大きく離れ、いまでは真逆の「社会に毒をまき散らす存在」として認識されていることを、日本人はよく理解しておいたほうがいいと思います。
とくに、リベラルが「自由」とは真逆の、「全体主義的で息苦しい社会」をつくり出してしまったことについては、残念ながらアメリカは日本よりもずっと先に行っています。
日本人は「リベラルの功罪」について、自分の頭でよく考え、アメリカの失敗の現状と、その原因や対応策について学んでおくべきでしょう。
絶対に、アメリカと同じ道を辿ってはいけません。
端的にいえば、「日本人は本当に、日本を現在のアメリカのような息苦しい社会にしたいのですか」「リベラルの危険性に気付いていますか」と、私は言いたいのです。
ヒラリーの「黒い影」
アメリカの2016年大統領選挙で、ヒラリー・クリントン候補がドナルド・トランプ候補に敗北したとき、多くの日本人が、「リベラルから熱烈に支援され、あれほど知的で政治経験も豊富な本命候補だったヒラリー・クリントン元国務長官が、なぜ政治経験のまったくないトランプに負けたのだろうか」と疑問に思ったようです。
一方、アメリカでは、この選挙を契機に、多くの人が大手メディアの報道を信用しなくなりました。
それもそのはず、FOXニュースなどのごく一部を除けば、大手メディアの大半はリベラル派であり、しかも選挙戦の最初から最後まで、ヒラリー陣営に過剰なまでの肩入れをしていました。
ヒラリーが勝つことは絶対に間違いないと報じ、繰り返し行われた世論調査でも、ヒラリーが常にリードしているかのような印象を与え続けていたのです。
ちなみに私は、日本時間の投開票日である2016年11月9日、朝8時から夜11時まで、ネット、地上波テレビ、ラジオ、BSの計4本の生番組に出演しました。
しかし、各番組の前日までの事前打ち合わせで、「トランプ勝利」を想定していた番組は一つもありませんでした。
予想外の展開に、台本をとくに重視するNHKラジオは大慌てでした。
私自身もトランプ候補に不在者投票を行い、さらにアメリカに住む妻や息子たちからは、以前から「絶対にトランプが勝つよ」と言われていました。
それでも、「本当に勝てるかもしれない」と私自身が感じたのは、実は投開票日の前日でした。
いまから振り返ってみても、それほど日本メディアの報道は「反トランプ」に偏っていたと思います。
結果論かもしれませんが、圧倒的多数の大手メディアによる「フェイクニュース」と、心理的な「印象操作」まで交えた大応援にもかかわらず、なぜヒラリー候補は2016年の大統領選挙で敗北したのでしょうか。
実は、その理由にも、現代アメリカにおける「リベラル」の正体が見え隠れしています。
一つ例を挙げるとすれば、ヒラリーが国務長官在任中、公務に私用メールアドレスを使用していた問題は、日本で報じられている以上に重大なものでした。
国家機密漏洩の危険性があっただけではありません。
日本でいえば外務大臣に当たる国務長官としての連絡に私的メールサーバーを使用していたため、そのやり取りを政府の重要な公文書として十分に記録に残すことができず、在任中の彼女の行動の多くが検証しにくくなりました。
当然のことながら、国務長官をはじめ、閣僚や政府職員が作成したメールを含む文書は、公的記録として保存されるべきものです。
それを熟知していたヒラリーが、なぜ公的なメールアドレスを使用しなかったのか。
私的なものと判断された数万通のメールが削除され、データの消去や端末の破壊をめぐる報道まで生じました。
そこまでして、彼女はいったい何を隠そうとしていたのでしょうか。
彼女には、いつもこうした「黒い影」が付きまとっているのです。
日本人が学ばなければならないこと
本章が問いかけているのは、特定の政治家の評価だけではありません。
自由、寛容、人権、多様性といった美しい言葉が、誰によって、どのような目的で使われているのかを見極める必要があるということです。
少数者を守ることは大切です。
しかし、少数者の権利を守るという名目で、異なる意見を持つ多数者を沈黙させてよいはずはありません。
偏見をなくすという名目で、新たな偏見や思想統制を生み出してはなりません。
報道機関が特定の候補者や思想に過度に肩入れし、都合の悪い事実を軽く扱うならば、国民は正しい判断材料を失います。
日本人は、報道されていることだけではなく、何が報道されていないのかを考えなければなりません。
自分と同じ意見だけを求めるのではなく、異なる意見にも触れ、自分の頭で考えることが必要です。
日本は、アメリカが経験した分断と息苦しさを、そのまま輸入してはなりません。
日本人は「リベラルの功罪」について自分の頭で考え、アメリカの失敗の現状と、その原因、そして対応策について学んでおくべきです。
絶対に、アメリカと同じ道を辿ってはいけません。
以上を、2026年7月24日、改めて世界へ向けて再発信する。