中国社会の相互不信――アーサー・H・スミスの中国人論を通して石平氏が説く「信」と「真実」
2020年8月9日。石平氏が、19世紀のアメリカ人宣教師アーサー・H・スミスの中国社会論を手掛かりに、中国社会における「信」「真実」「相互不信」の問題を論じた『WiLL』掲載論考を紹介する。スミスが記録した会話、嘘、諺を通じ、社会における信頼の意味を考える。
2020年8月9日
以下は、月刊誌『WiLL』9月号別冊に掲載された石平氏の論考からである。
記事は、「中国は世界最大の人種差別国家」「アーサー・H・スミスが説く――今も昔も…中国に『ウソつき』という言葉はない」と題し、19世紀後半に中国社会を観察したアメリカ人宣教師アーサー・H・スミスの著作を手掛かりとして、中国社会における「信」「真実」「相互不信」の問題を論じている。
同論考は、『WiLL』2020年6月号掲載記事をもとにしたものであり、武漢ウイルスをめぐる中国政府の責任転嫁についても触れながら、石平氏が、スミスの中国社会観には現在にも通じる部分があると論じたものである。
「嘘つき」という言葉はない
最後に「信」。
中国ほど相手を信用しない社会はありません。
相互不信の上に社会が成り立っています。
誰に対しても誠実さがなく、嘘をつくことなんて日常茶飯事。
石平氏は、このように述べたうえで、スミスの記述を紹介している。
《中国人は平常の会話において、嘘とまでは言えなくても真実を述べていない。したがって、真実を知るのは大変困難なことが多い。中国にあつては、この世で最も手に入れ難いものは真実である》
石平氏は、これについて、
「確かにその通りで、中国では真実よりも『いかに利益が得られるか』が重視されます。だから嘘をつくことに恥じらいを覚えません」
と論じている。
さらにスミスは、次のエピソードを紹介している。
《中国語をあまり話せない外国人が彼の召使いの一人に過失があったり怠慢であったりしたことに腹を立て、英語で〈humbug〔ぺテン師=嘘つき〕〉と罵った。召使いはほどなく、彼の質問に対応できる程度に十分に中国語力のある婦人に、彼に投げかけられたその恐ろし気な言葉が何を意味するのか教えて欲しいと頼み、〔その意味を知って〕〈致命的な言葉を受けたことに深く傷ついた〉のだった》
石平氏は、このエピソードをもとに、中国語における「嘘をつく」という行為と「嘘つき」という人物評価の違いについて論じている。
そして、次のようなたとえを示す。
日本人は毎日、白いご飯を食べます。
そんな人を指して「ご飯食べ」とは言わないでしょう。
当たり前のことだから。
それと同じで、中国語に「嘘つき」がないのは、嘘をつくことがあまりにも自明の理なのです。
これは石平氏による、中国社会における「嘘」と「信」を説明するための比喩である。
さらに石平氏は、「中国人ほど中国人を信用していません」と述べ、スミスが取り上げた中国の諺「一人で寺に入るな。二人で井戸を覗くな」を紹介する。
《我々は驚いて尋ねる。なぜ一人でお寺の境内に入ってはいけないのか。それはなんと、僧侶がその機会を捉えて彼を殺してしまうかもしれないからなのだ! また、なぜ二人で一緒に井戸を覗き込んではいけないのか。それは、もし彼らの一方が他方に借金をしているなら、あるいは一方の欲しい物を他方が持っているなら、一方の者はこの機会を捉えて他方を井戸の中へ突き落としてしまうかもしれないからなのだ!》
石平氏は、この記述を「つまり、誰も信じるなということだ」と解釈する。
そして、西洋社会では、子供が成人し親元を離れる際、「社会には誠実な人間もいれば、不誠実な人間もいる。だから用心しなさい」と教えるのに対し、中国社会については、そのような警戒心が初めから社会生活の前提になっているのだという趣旨を述べている。
19世紀の中国社会を観察したアーサー・H・スミスの記録と、現代中国を論じる石平氏の見解。
ここで問題にされているのは、単なる個人の性格ではない。
社会を成立させる基礎としての「信」がどの程度存在するのか、そして「真実」と「利益」のどちらが優先される社会なのかという問題である。
この稿続く。