「日中国交正常化」は誤りだった――台湾を切り捨てた1972年の拙速外交と、日本が今日まで払い続ける重大なツケ

国際教養大学学長・中嶋嶺雄氏の論文「『日中国交正常化』は誤りだった」から。1972年の日中共同声明、台湾(中華民国)との断交、毛沢東から田中角栄首相に贈られた『楚辞集注』の含意、瀋陽事件、尖閣諸島問題などを通して、中嶋氏が「拙速外交の重大なツケ」と論じた日中関係40年を振り返る。

2020年8月12日
以下は、「『日中国交正常化』は誤りだった」と題して、月刊誌『Hanada』セレクションに掲載された、国際教養大学学長・中嶋嶺雄氏の論文からである。
【『WiLL』(花田紀凱責任編集)2012年10月号】
日本国民のみならず世界中の人たちが必読の論文である。
【拙速外交の重大なツケ】
いまからちょうど40年前の1972年9月29日、日中国交を一気呵成に果たした田中角栄首相は、大平正芳外相とともに意気揚々と帰国した。
翌9月30日午後に大平外相を羽田空港に出迎えた当時の法眼晋作外務事務次官は、われわれ国際関係懇談会(内閣官房長官の私的諮問機関)のメンバーが待ち受ける部屋に来られて、「今回の日中交渉は百点満点どころか百二十点をつけられます」と、開口一番に自画自賛された。
法眼次官の発言を聞いていた私は、自分の見方や印象とのあまりに大きな違いに唖然としたことを、つい先日のことのように想い出す。
一方、中国側の毛沢東主席は、自分の居室を訪ねさせた日本の領袖に、記念品として『楚辞集注(そじしゅっちゅう)』の複製本を手渡し、田中首相は恭(うやうや)しくそれを頂戴してきたのであった。
中国古典に関しては右に出る者のない大碩学(せきがく)、亡き安岡正篤師が嘆いていたように、汨羅(べきら)に身を投げた屈原の故事にかかわる『楚辞集注』の贈呈は、まさに亡国のドラマを相手方に強制したに等しいことだったのに、息せききって訪中した田中首相や当時の外務省首脳がそんな含意を見抜く知識を持ち合わせるはずもなく、中国の意のままに操られて「日中復交三原則」を日中共同声明でも承認し、台湾(中華民国)を一方的に切り捨ててしまったのである。
この拙速外交の大きなツケに、日本は今日も高い代価を支払わされているばかりか、それほどの代価を払ってきたのに、中国側はこの40年間、日本に対する敬意や本物の友情を示すことは一切なかった。
日中国交樹立は、はたして正しい選択だったのだろうか。
周知のように、最近の日中関係においては尖閣諸島の問題がクローズアップされているけれど、いまから10年前の5月には、北朝鮮を脱出した難民が瀋陽の日本総領事館に駆け込んだのに、中国の官憲が無理やり彼らを連れ戻したという「瀋陽事件」が発生していた。
「瀋陽事件」は、たまたま日本のテレビの映像が伝えられたからこそ真相がわかったのだが、それがなければ、この事件も隠蔽されたまま「日中友好」外交のなかで葬り去られてしまっていたかもしれない。
しかし、「瀋陽事件」での紛れもない映像によって、日本国民の多くは共産党独裁国家・中国の実像と「日中友好」外交の現場を見てしまった。
「日中友好」外交は「対中国位負け」外交であり、「贖罪」外交は「日中癒着」外交にほかならないことも知ってしまったのである。
しかも、過去40年間も「日中友好」外交を続けてきたにもかかわらず、「靖国」問題、教科書問題、歴史認識問題、尖閣諸島問題などの日中間の懸案は、瀋陽総領事館での主権侵害問題ともども、何一つ決着してはいないのである。
したがって、日中国交30周年では「日中友好」を称える1万3000人もの代表団が訪中したというのに、日本人の国民感情はすでに冷え切ってしまっていた。
中国毒餃子事件に見られたように、中国産の食品や漢方薬の危険が報じられたり、滞日中国人犯罪の増加が重なったりしたことも大きな原因であったろう。
尖閣諸島の問題一つをとっても、中国側の主張にはまったく根拠がない。
今年は日中国交40周年だというのに、どういう形で40周年を祝福するというのだろうか。
ここにも拙速外交のツケが残されている。
この稿続く。

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