「チャイナ・スクール」の責任――中嶋嶺雄が告発した外務省の対中国外交と、不透明な政策決定構造

国際教養大学学長・中嶋嶺雄氏の論文「『日中国交正常化』は誤りだった」から。中嶋氏は、外務省内の「チャイナ・スクール」と呼ばれる人的・政策的系譜、周鴻慶亡命事件、歴代中国課の構造、そして対中国政策をめぐる情報と意思決定の不透明さを批判する。1971年に指摘した「霞ヶ関外交」の体質は、40年以上経っても基本的に変わっていないと論じた。

2020年8月12日
以下は、「『日中国交正常化』は誤りだった」と題して、月刊誌『Hanada』セレクションに掲載された、国際教養大学学長・中嶋嶺雄氏の論文からである。
【『WiLL』(花田紀凱責任編集)2012年10月号】
日本国民のみならず世界中の人たちが必読の論文である。
【チャイナ・スクールの責任】
「瀋陽事件」が証明したように、「日中友好」の美名に隠れた「日中癒着」の体質は、実は日中国交正常化以前から日本政府・外務省内に存在していた。
対中国外交に関しては、どこの国の外交官なのかわからないような外務官僚が省内を跋扈し、いわゆるチャイナ・スクールと呼ばれるグループを形成してきていた。
そもそも、中国語研修を選んでキャリア外交官(上級職)としての道を歩む人々を中心とする外務省内のチャイナ・スクールは、そこに中国語研修組ではないキャリア外交官もときには加わった形で、アジア局(現アジア大洋州局)の中国課首席事務官―中国課長―(香港総領事)―アジア局長―駐中国大使といったピラミッド構造によって、一元的に形成されてきていた。
アジア局中国課は従来、モンゴルや香港・台湾も含む東アジア全域の外交を担当し、その首席事務官はきわめて重要なポストなのである。
首席事務官がやがて中国課長、アジア局長、駐中国大使などになる場合が多く、わが国の対中国政策の決定を左右するからだ。
そこで、次に歴代の中国課長を私の知るかぎりで見てみると、日中国交正常化以前、佐藤栄作内閣時代の1968年から、対中国外交の命運を決した国交樹立の時期を挟んで5年前後も異例の長期にわたって中国課長だった橋本恕(ただし)氏、のちのアジア局長、駐中国大使が注目される。
それより前の1963年10月、日本のその後の対中政策を決定づける「周鴻慶(しゅうこうけい)亡命事件」が発生した。
これは、来日した中国代表団の通訳・周鴻慶が台湾へ亡命しようとしたが、それが叶わず中国に強制送還された事件であったが、橋本氏はこの事件について、当時の外務省がうまく処理して本人を中国へ送り戻したのがよかったと得々と語っていたことがある。
このあたりにも、その後の外務省の対中国姿勢の片鱗が早くも表れていたといえよう。
外務官僚から政治家になった加藤紘一氏、元自民党幹事長は、アメリカと中国を秤(はかり)にかけて、日本は米中と二等辺三角形の位置にあるべきだと述べて多くの批判を浴びたが、その加藤氏は橋本課長のもとで次席事務官を務めていた。
私は1969年から71年まで、外務省特別研究員として香港総領事館に在勤したことがある。
当時は日中国交樹立の直前、米中接近の時期で、外務省に出向した経験に基づいて、帰国後に「『霞ヶ関外交』の体質〈岐路に立つ日本外交〉」という文章を『日本経済新聞』(1971年6月8日付)に寄せたことがあった。
そのなかで、わが国の中国政策決定過程を見ると、
「外務省の政策決定過程はあまりにも恣意的かつ不透明であるように思われる。そうした不透明さのなかで問題が処理されるだけに、だれがどんな情報をだれに送り、だれがどんな情報をだれから受けて責任ある政策を決定するか、という政策決定過程における情報とコミュニケーションのチャンネルもまた不分明であって、これではとうていあの目敏(めざと)く執拗で、またテンポの速い中国外交の展開に十分対応できないように思われる」
と書いたのだが、40年以上経った現在も、この体質は基本的に変わっていない。
この稿続く。

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