日本人の型を取り戻せ――国語・読書・道徳を基礎とする教育と、藤原正彦が評価した安倍外交
2018-05-09
2026-07-25 分割して発信した章を統合し、再掲載
藤原正彦が語る、日本人の道徳、礼節、惻隠、もののあわれという「日本人の型」。小学校英語やIT偏重のグローバル教育を批判し、国語、読書、読み書き算数を初等教育の中心に据える必要性を説く。同時に、安倍晋三首相の外交を高く評価しながら、教育政策については「落第」と論じた対話を統合して再掲載する。
本章は、2018年5月9日に複数の短い章として発信した、藤原正彦氏の発言を中心とする対話を、一つの文章として統合したものである。
当時、重要な言葉を一つずつ読者に届けるため、あえて小さく分けて発信した。
しかし、その全体を通して読めば、藤原氏が説いていたのは、単なる英語教育批判でも、単なる教育制度論でもないことが分かる。
それは、日本人が長い歴史の中で育ててきた道徳、礼節、惻隠、卑怯を憎む心、もののあわれといった「日本人の型」を、教育の中心へ取り戻さなければならないという主張である。
そして、日本が世界の中で自立して生きていくためには、外国の流行を追う前に、自国の言葉と文化に立脚した人間を育てなければならないという警告である。
他国を圧倒する日本人の型
――日本の指導者やエリートが誇りを失い始めたきっかけは、どの時代にあるのでしょうか。
藤原 本を正せば、明治時代です。
札幌農学校を出て、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学、さらにドイツに留学した新渡戸稲造が、明治39(1906)年に旧制一高、すなわち第一高等学校の校長に就任すると、学生に西洋的教養を身に付けさせようとしました。
当時、一高などで学んでいた明治20年代生まれのエリートたちから、武士道精神、道徳、礼節、惻隠などの「日本人の型」が徐々に忘れられていったことが問題でしょう。
武者小路実篤や志賀直哉、芥川龍之介などの作家も、「自らの型を忘れたがゆえに、他の型に圧倒されてしまった」ような気がします。
――志賀直哉は「日本語廃止論」を唱えましたね。
藤原 母語の徹底なくして教育はありません。
母語の徹底なくして、真の国際人も育ちません。
幕末維新期の遣欧米使節団や天正遣欧少年使節が世界で尊敬の念を集めたのは、英語が上手だったからではありません。
彼らが海外の地に降り立った瞬間、道徳や礼節など、堂々たる「日本人の型」を身に付けていることが、相手に即座に伝わったからです。
西洋社会において、道徳は主として教会が教えるものです。
嘘をついて悪事を働いた者は、死後に地獄や煉獄へ落とされるという「恐怖」が、道徳の根幹をなしている。
しかし、日本社会において、道徳はあくまでも家庭の躾として学ぶものです。
罪と罰という複雑な論理ではなく、単純に「卑怯なことをしてはならない」と教えられる。
卑怯を憎む心、惻隠、もののあわれなどの美的情緒こそ、他国を圧倒する日本人の型というべきものです。
日本の民度と道徳規範
――まさに藤原先生のお父さま、新田次郎氏が実践された教育ですね。
藤原 私はアメリカとイギリスに留学し、世界各地を旅するうちに、あることに気付きました。
すなわち、道徳規範や思いやりなど、いわゆる民度において、日本は他国を圧倒的に引き離しているということです。
躾、忖度、惻隠など、日本人ほどこれらを備えた国民は、ほかにはほとんどいません。
中国人には、この三つがほとんど見られない。
アメリカ人やイギリス人は、事情を説明すれば親切にしてくれますが、黙っていれば何もしてくれません。
日本人は、相手が言葉にする前に、相手の事情や気持ちを察しようとする。
この日本の優越性を忘れて、外国の真似ばかりするのは危険です。
いくら英語を学んでも、それだけで国家の繁栄に結び付かないことは、20世紀を通じて斜陽を続けたイギリスが劇的に証明しています。
彼らは世界一英語が上手な人たちです。
しかし、金融以外の経済は振るわなかった。
翻訳や通訳は専門家を雇えば済む話であって、英語とビジネスの成功には直接の関係はありません。
英語が話せるだけで国際人になれるわけでもありません。
アメリカの大学生で、国際人と呼べそうなのは、10人に1人程度ではないかと思われます。
さらに興味深いことに、私の知る限り、英語に堪能な日本人ほど、小学校からの英語教育に否定的です。
小学校では英語よりも、国語、国語、国語なのです。
反対に、英語ができない人に限って、「親の仇」とでもいうように、わが子へ英語を無理に覚えさせようとする。
日本人の型を忘れ、英語やITにひれ伏してしまった世代が、欧米への劣等感を次の世代へ継承させようとするのは、大きな問題です。
――まったく余計なお節介ですね。
グローバル教育は周回遅れ
藤原 北海道から沖縄まで、日本全国の小学二年生が、ほぼ同じ時期に掛け算九九の七の段を学んでいる光景は素晴らしい。
これは、全国一斉の教育課程と検定教科書の賜物です。
多くの国々では、州や地域ごとに教育内容も水準も異なり、基礎と基本を叩き込むディシプリン、すなわち鍛錬に欠けています。
それに気付いた欧米の学者は、1980年代から、「日本の教育を真似しなければ、経済で独り勝ちしている日本には勝てない」と言い始めました。
ところが、日本の教育学者は、それ以前に書かれた欧米の論文を読み、1990年代後半から2000年代にかけて、欧米を真似た「ゆとり教育」を推進しました。
ゆとり教育が、実際には「ゆるみ教育」であったことが明らかになると、今度は「フィンランド方式に学べ」と言い始めた。
OECD加盟国の学力調査で、フィンランドが高い成績を示したことが主な理由でした。
しかし、この主張も近年は下火になりました。
移民の増加などに伴い、フィンランドの学力水準が低下したからです。
それにもかかわらず、日本は、中国や韓国も小学校から英語教育に力を入れている、日本もそうしなければ負けてしまうなどと言って、英語教育の開始を小学五年生から小学三年生へ早めました。
経済力は日本よりはるかに弱く、自然科学分野のノーベル賞受賞者もほとんど出していない国々の真似をするのですから、頭がくらくらします。
ほかにも、ITやプレゼンテーションといった、いわゆるグローバル教育という周回遅れの話に飛び付いています。
次から次へと海外の真似をして、日本が江戸初期から2000年頃まで、約四世紀にわたって世界でも突出した教育力と社会水準を保ってきたという事実に気付いていない。
わが国の初等教育の真髄は、「読み・書き・算数」という基礎を徹底することにあります。
なかでも最も大切なのが「読み」、すなわち読書です。
電子端末などかなぐり捨てて、とにかく子供に本を手に取ってもらわなければ、本当に国が滅びます。
子供に英語やITを詰め込めば国際人になり、多様な価値観が育つというのは、実に浅はかな人間観です。
そもそも教育は、経済や政治よりもはるかに難しい事業です。
経団連や政府が思い付きで改革してよいものではありません。
小学校教育の最大目標
小学校教育の最大目標は、「自ら本に手を伸ばす子供」を育てることです。
本を読む子供は、他人の人生を知る。
過去を知る。
自分が生まれる前の世界を知る。
自分とは異なる考え方を知る。
言葉を通じて想像する力を身に付ける。
その積み重ねが、人間をつくり、日本人をつくるのです。
英語やITは、必要になれば後から学ぶことができます。
しかし、幼い時期に身に付けるべき母語の力、読書の習慣、道徳的な感性は、後になって簡単に取り戻せるものではありません。
安倍首相は外交の天才だが
――教育政策において、安倍首相に求められるのも、やはり脚下照顧でしょうか。
藤原 はっきり申し上げますが、安倍晋三首相は外交に関しては「天才」です。
アメリカ、中国、ロシア、ドイツなど、大国間の力関係を見抜き、日本がどの国と、どのように協力すべきかを即座に判断できる。
北朝鮮の核・ミサイル問題についても、「金正恩を徹底的に経済制裁で締め上げる」という当時の方針は大正解です。
本当のことをいえば、北朝鮮のミサイルは、その時点ですでに東京やソウルに届く能力を持っていた。
もしアメリカが直ちに北朝鮮攻撃へ踏み切れば、最も大きな被害を受けるのは日本と韓国です。
アメリカ本土が直ちに同じ被害を受けるわけではありません。
安倍首相はそのことを理解し、北朝鮮を即刻攻撃したいと考えかねないトランプ大統領をなだめながら、日米関係を絶妙に制御していた。
当時、国民としては、安倍首相を代えるわけにはいきませんでした。
しかしながら、残念なことに、教育政策については「落第」と言わねばなりません。
安倍政権は「働き方改革」を進めていました。
しかし、わが国に必要なのは、裁量労働制の拡大によって長時間労働を助長することではなく、短時間で高い成果を生む頭脳労働への転換です。
したがって、ITや英語のような教育へ、子供たちの大切な時間を過剰に費やす余裕はありません。
たとえ英語を身に付けたとしても、近い将来、スマートフォンなどの端末に、高性能な自動音声翻訳機能が備わるでしょう。
当時の小学生が大学を卒業する頃には、端末さえあれば、異なる言語を話す人とも会話できる時代になると予測されていました。
それなら、何のために小学校から英語を教えるのでしょうか。
小学校教育の最大目標は、「自ら本に手を伸ばす子」を育てることなのです。
これが人間をつくり、日本人をつくるからです。
――つくづく、藤原先生が文部科学大臣だったらよいのにと思います。
藤原 しかし、おそらく身体検査で引っ掛かるでしょう。
昔付き合った世界中の女性たちに、あることないことを週刊誌へ告げ口された挙げ句、女房に離縁を勧告されるという悲劇は、何としても避けたいところです。
結び
この対話の中心にあるのは、英語を学ぶべきか否かという単純な問題ではない。
ITを使うべきか、本を読むべきかという二者択一でもない。
最も重要なのは、何を教育の根幹に置くかである。
母語を徹底して学び、本を読み、読み書き算数の基礎を身に付け、卑怯を憎み、他者の痛みを察する。
そのうえで必要な外国語や技術を学ぶ。
この順序を逆転させてはならない。
日本人が日本人の型を失い、外国の評価や流行だけを追い続けるなら、どれほど英語を学び、IT機器を配っても、自立した国際人は育たない。
国際人とは、国籍や文化を脱ぎ捨てた人間ではない。
自国の言葉、歴史、道徳、美意識に深く根を張り、そのうえで他国の人々と向き合える人間である。
藤原正彦氏の言葉は、日本の教育が何を守り、何を取り戻すべきかを、今もなお鋭く問いかけている。
MIKIO KISARA