2012-06-17 宇治・三室戸寺――紫陽花、庭、宇治川、そしてアオサギたち|フジコ・ヘミング《ため息》/ラヴェル《亡き王女のためのパヴァーヌ》
2012年6月17日、私は宇治を訪れていた。
この頃の私は、カメラを手に、宇治へも立て続けに足を運んでいた。
この日の写真は、182枚。
三室戸寺では、初夏の光の中に紫陽花が咲き、庭の深い緑と白砂が、静かな時間をつくっていた。
華やかに咲きながら、どこか雨の記憶を宿しているような紫陽花。
木々の緑。
庭石。
白砂。
そこには、人の言葉を必要としない美しさがあった。
寺を離れれば、宇治川が流れている。
昔から変わることなく流れ続ける川であっても、私が目にした2012年6月17日の光は、その日、その時にしか存在しなかった。
水面を渡る光も、川辺を吹く風も、すべては一度きりである。
そして宇治橋では、アオサギたちの姿に出会った。
なかでも、一羽を大写しにした写真は、この日の182枚の中でも、とりわけ印象深い一枚となった。
しかし、そこにいたのは一羽だけではない。
当時、アオサギたちは宇治川のこの辺りを営巣の場所としていた。
川岸には、多くのアオサギが一列に並んでいた。
宇治川の流れを前に、静かに佇むその姿は、まるで昔からこの川の風景の一部であったかのようだった。
一羽を大きく捉えた写真。
そして、その向こうに広がる、多くのアオサギたちのいる宇治川の光景。
それもまた、2012年6月17日の宇治で、私が実際に目にした風景だった。
写真を撮るということは、消えていく一瞬を、消えないものにしようとする行為なのかもしれない。
あの日から十四年。
今、182枚の写真を見返していると、そこに写っているのは、三室戸寺や紫陽花や宇治川だけではないことに気づく。
そこには、2012年6月17日という、二度とは戻らない一日そのものが残っている。
音楽には、フジコ・ヘミングがカーネギー・ホールで奏でたリスト《ため息》。
そして、ラヴェル《亡き王女のためのパヴァーヌ》。
《ため息》の音が、紫陽花と緑と宇治川の水の上を流れてゆく。
《亡き王女のためのパヴァーヌ》が、過ぎ去った時間を静かに振り返る。
失われたから美しいのではない。
美しかったものが時間の彼方へ去っていったからこそ、写真は、それをもう一度、私たちの前へ連れ戻してくれる。
2012年6月17日。
宇治、三室戸寺。
初夏の紫陽花。
静かな庭。
光を映しながら流れ続ける宇治川。
そして、宇治橋で大写しにした一羽のアオサギと、川岸に一列に並んでいた多くのアオサギたち。
私があの日見た光景を、182枚の写真と二つの音楽によって、ここに残す。