雨上がりの薔薇と蓮の華――生きて、再びこの美しさに出会った|2012.7.12 京都府立植物園とポリーニのバッハ《平均律クラヴィーア曲集》

2012年7月12日。
雨上がりの京都府立植物園を訪れた。
雨を受けた薔薇。
水滴をまとった花弁。
そして、静かな水面から空へ向かって咲く蓮の華。
晴れた日の花とは違う美しさが、そこにはあった。
雨は色彩を深くする。
葉の緑を濃くし、花弁の輪郭を際立たせ、一滴の水さえ光を宿すものに変えてしまう。
雨が止み、雲の向こうから光が戻ってくる。
その時、植物園全体が、もう一度生まれ直したように見えた。
薔薇は薔薇として。
蓮は蓮として。
名も知らぬ草木までが、それぞれに与えられた姿で、ただそこに在った。
美しいものは、何も語らない。
自分が美しいと主張することさえない。
ただ存在する。
そして、それを見る人間の側に、その美しさを受け取る眼があればいい。
この写真集に選んだのは、J.S.バッハ《平均律クラヴィーア曲集》第1巻。
演奏はマウリツィオ・ポリーニ。
第1番から第8番。
そして第20番から第26番。
約30分である。
第1番ハ長調の、あの澄み切った響きから始めたかった。
雨が去った後に最初の光が差し込むように、ポリーニの指からバッハの音が一つずつ現れてくる。
それは、この日の京都府立植物園で私が見た光によく似ている。
途中、第14番から第19番までは使っていない。
その六曲は、2012年に撮影した河井寛次郎邸の写真集のために選んだからである。
木と土と光の河井寛次郎邸には第14番から第19番を。
雨上がりの薔薇と蓮の華には、第1番から第8番、そして第20番から第26番を。
同じバッハ。
同じポリーニ。
しかし、そこから立ち現れる世界はまったく違う。
バッハの音楽には、花を説明する言葉は一つもない。
ポリーニも、薔薇や蓮について何かを語っているわけではない。
それなのに、音と写真を重ねた時、不思議なほど自然に一つになる。
それはおそらく、バッハの音楽にも、植物にも、人間が勝手につくった装飾を超えた秩序があるからだろう。
一枚の花弁。
一滴の雨。
一本の茎。
そこには、人間には到底つくり得ない線と色彩がある。
そしてバッハには、人間が生み出した音楽でありながら、まるで最初から世界のどこかに存在していたかのような秩序がある。
ポリーニは、それを過剰に語らない。
音を音として置いていく。
だから、この日の花々とよく似合う。
2012年7月12日。
雨は上がった。
薔薇にはまだ水滴が残っていた。
蓮の華は静かに空を向いていた。
私は、その一瞬一瞬を写真に残した。
それから長い歳月が過ぎた。
けれども、写真の中では雨は今も上がったばかりである。
水滴はまだ花弁の上にある。
蓮は今も咲いている。
そしてポリーニのバッハを重ねれば、あの日の光が再び動き始める。
写真とは、過ぎ去った時間を取り戻すことなのかもしれない。
音楽とは、その時間にもう一度、生命を与えるものなのかもしれない。
雨上がりの薔薇と蓮の華。
生きて、再びこの美しさに出会った。
2012年7月12日、京都府立植物園。
約30分の、光と花とバッハの記録である。

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