東條英機の事務処理能力と開戦回避の実相――三国同盟、シナ撤兵、御前会議

2017-6-16
あの当時日本の立場について、日本の首相が考察し、それを議会が承認し枢密院も承認し、天皇陛下も承認せざるを得ない事情があったことを理解しなければ、日本が一方的に悪い国だったと見えてきてしまう。
それは歴史にたいして公平な態度ではない。
前章の、この文節を読んでいた私は、朝日新聞などのやっていることは、今も、何も変わっていない事を痛感したのである。
朝日新聞社と、これに同調して来た連中が、どれほど悪質であるかについては、私にしか書けない論文として後述するが、この文節は、朝日新聞が安倍政権の弱体化を図るために担ぎ上げた小池百合子が、石原慎太郎を悪人に仕立て上げた構図と全く一緒ではないか。
森友学園騒動、加計学園騒動、全て、全く一緒の構図である事に、慧眼の士は皆、気づくはずである。
それにしても朝日などの悪質さ、悪辣さは本当に度し難い。
彼らが中国の新聞なり人間達なら、死罪を含む重罪に処せられているはずだ。
私は今や、彼等こそ、そうなっていてしかるべきであると心底思っている。
なぜなら、この悪党どもに、これ以上、日本国と日本国民に損害を与え続けさせてはならないからである。
以下は前章の続きである。
*~*は私。
事務処理能力は陸軍随一
東條英機は、五十六歳のとき第二次近衛内閣で陸相としてはじめて入閣するが、それまで陽のあたる出世街道を歩んだわけではなかった。
歳の近いフランクリン・デラノ・ルーズベルト米大統領と比べると、ルーズベルトが大統領に就任したとき(一九三三年、五十一歳)には、陸軍少将、陸軍省軍事調査部長だった。
その後は、関東軍憲兵隊司令官として、満洲に派遣され、中央の政治とは物理的にも遠い場所にいたのである。
ではなぜ、そんな東條にスポットライトが当たったのか。
そこには、二・二六事件が関係している。
事件が勃発したとき、東條は満洲にいたが、叛乱に与した者たちを徹底的に取り締まったことが、昭和天皇をはじめ陸軍首脳の目に止まったのである。
その有能さと厳格さの故に、重臣たちや陸軍首脳たちに東條を信頼感服せしめたのだった。
時局は風雲急を告げていた。
シナ事変は、第一次近衛内閣の「蒋介石政府を相手にせず」という愚かな声明のために、収拾の目処がつかなくなっていた。
*この声明を出させたのも朝日新聞の社員であり、ソ連のスパイであり、当時の日本で有数の中国通として遇せられていた尾崎秀美である事。
日本を中国との戦争に追いやるように指示していたソ連の意図通りに、近衛内閣に中国との戦争継続に向かわせた事を私が知ったのも、3年前の8月以降の事だった*
やるべきでない戦争をやっているのは誰の眼にも明らかだった(東條は引き込まれた戦争だったと述べている)。
ヨーロッパも抜き差しならぬ情勢であり、関東軍は強大なソ連軍と国境を接して相対峙していた。
そんな折に、徒に時間を浪費しては、再び二・二六事件のようなことが起きる可能性が充分にあった。
ではその陸軍を完全に押さえられるのは誰かということで、東條しかいないと白羽の矢が立った。
東條は、陸軍きっての努力家であり頭脳明晰な人だった。
石原莞爾からは想像力が足りないなどと批判されたが、正確に物事を把握し、記憶力は抜群であり(メモ魔でもあった)、彼の事務能力は「超」がつくくらいに優秀だったと言われている。
そういう人物の記録である。
いくつか記憶違いはあっても、直ちに訂正している。
彼は自分の責任について、その範囲は国際法や刑事法に照らしてではなく、自分の職権範囲内のことに対して責任を取ると言明している。
そして東條は衷心からの天皇崇拝者だった。
天皇の信頼も厚く、東條にたいする天皇の信頼は最後まで揺るがなかったといわれている。
前述したように、日本は石油や鉄鉱石などの原材料が自前で産出できない。
1930年にアメリカが課した高関税をきっかけとして、世界経済はブロック化し、貿易量は1930年から31年の1年間に半分近くにまで減少したとまで言われる。
「供述書」には出てこないが、当時の言葉で「アウタルキー(autarky)」という言葉がある。
これは「自己完結経済単位」と訳されるが、要するに輸出入しないでも近代国家として生きることのできる領土を持っているということである。
「供述書」にもでてくるが、「持てる国」=haves)とは、アウタルキー国家であり、当時で言えばアメリカ、世界の四分の一を植民地にしていたイギリス、インドネシアを領土としていたオランダ、そのほかフランス、ソ連である。
東條は、日本が非アウタルキー国家であることを終始一貫主張している。
それでも外部から必要な資源などが輸入できれば問題ないのだが、当時のブロック経済のもとでは、それがなかなかできないという意識が絶えず東條の頭のなかにあった。
だから、原材料を押さえているアメリカやイギリス、オランダを相手に戦う発想は、東條にはなかった。
そして、「持たざる国」(=have-nots)というのは、奇しくも松岡洋右が画策した日独伊三国同盟の三国である、ドイツ、イタリア、日本のことだった。
ドイツも石油のためにはルーマニアに進出しなくてはならないと考えていたくらいである。
第三次近衛内閣が発足して間もなく、日本は南部仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナム)のサイゴン近辺に進駐する。
進駐の理由は、何よりもインドネシアなど石油資源・鉱物資源の宝庫である南方地域との断絶を恐れたからだ。
その結果、アメリカによる在米日本資産凍結、石油全面禁輸という強烈なしっぺ返しを食らうが、日本からすればルーズベルトやヨーロッパ要人の発言から、日本が進駐しなければ仏印を彼らに押さえられそうだと判断せざるを得ない状況にあった。
石油問題でアメリカが緩和してくれれば撤兵する用意があった。
ちなみに、石油不足が当時の日本人をどれだけ悩ませていたかというと、こんな逸話がある。
日本海軍を代表する知性の一人、山本五十六が海軍次官のときのこと。
海水から石油を生み出す方法を発明したというインチキ話に、彼が引っかかってしまったというのである。
ことほど左様に石油の問題は、戦前の人間の平衡感覚を麻痺させてしまうものだった。
いくら立派な軍艦や戦闘機をつくろうが、石油がなければタダの鉄の塊でしかない。
三国同盟とシナ撤兵
日本はアメリカの強固な対日制裁を受けながらも、アメリカとの対話をつづける努力をしていた。
ルーズベルトは日本を撃つべしという腹はあったものの、アメリカ国民は、自分の国が第一次大戦で参戦し多大な犠牲を払いながら、得るところが少なかったことをまだ覚えていた。
そのために、日本と戦争することにたいして反対の意識が開戦直前まで強かった。
その交渉のなか、コーデル・ハル米国務長官が対日覚書に添えた「オーラル・ステートメント」(口上書)には、「不幸にして日本政府の指導者の中には、ナチス・ドイツの侵略政策に深く関与する者がいる」と書かれていた。
これは明白な内政干渉だが、その人物が松岡外相だということもまた明らかで、彼を日米交渉から外すよう要求してきたのである。
そしてハル同様、第二次近衛内閣も松岡をもてあましていた。
結果、近衛は彼の首を切るべく、内閣総辞職をして、第三次近衛内閣を組閣する一九四一年七月十八日)。
当時の制度では首相が閣僚を自由にクビにできなかったからである。
近衛は本気で戦争回避を考えていたのだった。
アメリカはハル四原則を繰り返し、日本のシナからの撤兵と三国同盟にたいする態度について、明確な譲歩を求めていた。
私自身は、もし三国同盟を解消するなら、このときしかなかったと思う。
というのも、このときだけは口実があったからだ。
ドイツがソ連と戦争を始めたからである。
日本はソ連と中立条約を結んでいる。
だが、ドイツとは同盟関係にある。
その捩れを解消すべく、このときに三国同盟を破棄すればよかったのにと思う。
そうしていたなら、日本は戦争を回避できたかも知れない。
これ以降は誰が首相であっても、戦争は回避できなかったのではないか。
アメリカは、この後交渉しても一歩も譲ったことはない。
駐英大使がイーデン英外相に電報を打っているが、そこでは「松岡の辞任や日本の石油備蓄状況などを鑑みると、いまがアメリカとしても日本との交渉の好機ではないか」といった趣旨のことを報告している。
しかし、アメリカにはまるで歩み寄りの姿勢は見られなかった。
この段になっても、日本の政府も軍部もともに対米戦争の計画は持っていなかった。
後日、東京裁判で争われた「共同謀議」が意味を成さないことを示すひとつの証左と言える。
そして昭和十六(一九四二年九月六日の御前会議を迎える。
ここでは、「弾発性」という言葉を使って、徒に対米交渉をずるずると延ばせば、米英蘭による対日制裁のために、日本は戦う力を喪失してしまうということを克明に述べている。
石油なし、屑鉄なしで、日本の防衛を司る統帥部としては一歩も譲れなかった。
またシナ撤兵問題についても、譲歩しない理由を「もしここで撤退したらシナの侮日思想はますます増長し、第二第三のシナ事変が勃発するに違いない」と言い切っている。
撤兵したくとも軽々にそうすれば、さらなる混乱が大陸に、そして日本とシナとのあいだに巻き起こることを東條は危惧していたのである。
現在のイラク問題で、容易にアメリカが撤兵できないことと同じだろう。
侵略でも搾取でもない
第三次近衛内閣総辞職(同年十月十六日)は、東條と豊田外相の意見が合わないことが原因とされた。
近衛は、私邸である荻外荘で陸海外務三相と企画院総裁との会議を開いた。
近衛と豊田は外交的妥結があると主張したが、東條はシナ駐兵問題では譲歩はできない、戦争の展望については九月六日の御前会議で論じたことで、いまさらその還元はできないとした。
及川海相は首相一任という意見であった。
その会談の前日、海軍はアメリカとの交渉継続を希望するが、そのことは言えないので首相一任とする旨を、近衛に伝えていたのである。
それを事前に自分も知っていたら、陸軍としては納得する余地もあっただろうと東條は述懐しているが、海軍としては「戦争ができない」とは公然と言えなかったのだった。
しかし自信がないなら、そう主張すべきだったのだが、海相は会議では囗を開かなかったのである。
「供述書」を読んでいくと、東條としては、九月六日の御前会議の決定を白紙還元しなくてはいけないという意見をすでに持っていたことが解る。
そして、天皇御臨席の御前会議の結論をやり直すのは、普通の内閣には容易なことではないからと、近衛の後任には、皇族である束久邇宮稔彦を適任と考え、それを近衛に伝えていた。
その提案に反対して、逆に東條を後継首班に推したのは内大臣木戸幸一であった。
大命降下において、木戸は、天皇陛下は最後まで戦争反対である、したがって九月六日の御前会議決定にとらわれないことを、陛下の思召として東條に伝えた。
それで、東條は九月六日の御前会議を白紙還元して、有名な甲案乙案をもって対米交渉に入る。

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