「座して死を待つ」専守防衛論――敵基地攻撃能力と国家防衛の根本原則
阿比留瑠比氏の論説「『座して死を待つ』専守防衛論」を紹介する。
昭和31年の鳩山一郎内閣による政府統一見解、安倍晋三首相が長年訴えてきた敵基地攻撃能力、集団的自衛権、安全保障関連法、公明党の専守防衛論を通じ、日本国民の生命と財産を守る防衛政策の在り方を問う。
2020-07-17
以下は、「『座して死を待つ』専守防衛論」と題して、昨日の産経新聞に掲載された、論説委員兼政治部編集委員、阿比留瑠比氏の連載コラムからである。
本稿もまた、阿比留瑠比氏が、現役の記者として最良の一人であることを証明している。
昭和31年2月、当時の鳩山一郎首相は、政府統一見解として、次のように述べた。
「わが国土に対し、誘導弾などによる攻撃が行われた場合、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨だとは考えられない」
自国がミサイル攻撃を受けることが明白でありながら、発射されるまで何もせず、発射後も迎撃だけに頼ることが、果たして国家防衛と呼べるのか。
本稿は、専守防衛という言葉が、国民の生命と国土を守るための現実的な防衛政策ではなく、「座して死を待つ」思想へと変質していないかを問うものである。
なお、*印で囲んだ部分は筆者による注記及び見解である。
以下、引用である。
【「座して死を待つ」専守防衛論】
安倍晋三首相が6月18日の記者会見で、敵のミサイル基地を攻撃して発射を抑止する「敵基地攻撃能力」保有の検討を表明したのは、唐突な思い付きではない。
むしろ、地上配備型迎撃システム「イージス・アショア」の配備断念の機を捉え、長年の考えを実現しようと考えたのだろう。
前日には、周囲にこう語っていた。
「イージス・アショアがこうなったから、自衛隊の打撃力について正面から議論しようと思っている。国家の安全について徹底的に議論していきたい」
11年前の平成21年4月、第1次政権を終えて雌伏中だった安倍首相は、自民党本部で開かれた会合で、同月の北朝鮮による長距離弾道ミサイル発射を踏まえ、こう述べていた。
「日米両国が協力を深めつつミサイル防衛を機能させるためには、集団的自衛権の行使や敵基地攻撃能力の保有について議論しないといけない」
このうち、集団的自衛権の行使に関しては、安倍首相は若手議員時代の平成11年4月の国会で、その必要性と、内閣法制局ではなく首相の責任で見解を示すべきだと主張していた。
そして、16年後の平成27年9月、安全保障関連法を成立させて実現した。
*これは、安倍首相が、歴代最高の政治家の一人であることを実証している事実である。
安倍首相が、最澄の定義した「国宝」であり、日本の至宝であることを実証してもいる。
一方、朝日新聞等の新聞社やNHKの報道部を支配している人々、いわゆる人権派弁護士、いわゆる知識人、いわゆる市民団体について、筆者は、日本の安全と国益を損なう主張を繰り返してきたと厳しく批判している。
筆者は、彼らの主張が、「まことしやかな嘘」と「底知れぬ悪」によって日本を弱体化させようとする中国や朝鮮半島の勢力を、結果的に利するものになってきたと考えている。*
【敵基地攻撃が議論に】
残る課題は、敵基地攻撃能力の保有となる。
これについても、安倍首相は小泉純一郎内閣の官房長官時代である平成18年7月にも検討の必要性を指摘し、第2次安倍内閣発足直後の平成25年2月の国会でも、
「それ、敵基地攻撃を、ずっと米国に頼り続けてよいのか」
と答弁している。
ずっと問題意識を抱き続けてきたのである。
それでは、具体的にどのような能力を保有するのか。
安倍首相の考え方を知る兼原信克前官房副長官補は、8日付の読売新聞で、次のようにコメントしている。
「イージス・アショアの代替策としては、航空自衛隊に導入されるスタンドオフミサイルのような中距離ミサイルなどを増やし、抑止力を強化することを検討するべきだ。安倍首相もそういう議論をしたいのだと思う」
安倍首相の記者会見での発言を受けて、自民党内での議論も活発化した。
同党は、もともと平成29年3月、敵基地攻撃能力の保有を検討するよう政府に提言している。
政府は、
「与党の意見も受け止めながら、政府内でしっかり議論したい」
と、河野太郎防衛相が述べているように、検討を進める姿勢である。
中国や北朝鮮の脅威が以前とは比べものにならないほど高まっている現在、当然至極の流れである。
安全保障に関して現実的になった国民からも、強い反発の声は、ほとんど聞こえない。
【昭和31年に政府見解】
この問題をめぐっては、既に64年前の昭和31年2月、当時の鳩山一郎首相が、次のように、敵基地攻撃能力の保有は合憲であるとの政府統一見解を示している。
「わが国土に対し、誘導弾などによる攻撃が行われた場合、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨だとは考えられない」
にもかかわらず、公明党は、
「専守防衛の基本的な考えからも、国民の理解を得られるとは思っていない」
と、斉藤鉄夫幹事長が述べるなど、時代遅れの非合理的な見解を繰り返し表明している。
専守防衛とは、有事の際には必然的に日本の国土が戦場となる、本土決戦論である。
鳩山内閣当時よりも、はるかにミサイル技術が進化した現在にあっては、まさに「座して死を待つ」行為にほかならない。
これでは、抑止力も働かない。
公明党は、国民の生命と財産を軽視し、外患を招く危険な発想を改めない限り、「平和の党」などと名乗るべきではない。
以上、引用である。
【筆者の総括】
専守防衛とは、国民が攻撃を受けるまで何もしないことではない。
ましてや、敵がミサイルを発射する準備を完了し、日本への攻撃が避けられない状況になっても、最初の一撃を甘んじて受け入れるという意味ではない。
国家にとって最も重要な責務は、国民の生命と財産を守ることである。
憲法も法律も、その国家としての根本的な責務を否定するために存在しているのではない。
昭和31年の政府統一見解は、その当然の原則を明確にしている。
日本に対する誘導弾攻撃が行われた場合、「座して自滅を待つ」ことが憲法の趣旨であるはずがない。
敵基地攻撃能力を保有する目的は、外国を侵略することではない。
日本への攻撃を思いとどまらせる抑止力を持ち、実際に攻撃が避けられない場合には、国民が犠牲になる前に発射手段を無力化することである。
ミサイル技術が進歩し、発射から着弾までの時間が極端に短くなれば、迎撃だけによって国民を完全に守ることは、ますます困難になる。
発射された全てのミサイルを確実に迎撃できるという保証もない。
にもかかわらず、「専守防衛」という言葉だけを掲げ、敵の発射基地や指揮統制能力に一切手を触れてはならないとするなら、日本の国土が攻撃を受け、国民が犠牲になることを最初から受け入れることになる。
それは平和主義ではない。
国民に犠牲を強いる無責任な思想である。
安倍晋三首相は、集団的自衛権についても、敵基地攻撃能力についても、政権の都合によって突然言い出したのではない。
若手議員の時代から必要性を訴え、首相となってからも、一貫して国家の安全を考え続けてきた。
平成27年の安全保障関連法の成立は、その長年の問題意識を実現したものである。
残された課題が、敵基地攻撃能力の保有だった。
国民の生命と財産を守る能力を持つことを「戦争への道」と呼び、国民が攻撃を受けるまで何もしないことを「平和」と呼ぶ。
そのような言葉の倒錯を、これ以上許してはならない。