鉄は国家なり――日本製鉄史に刻まれた明治人の独立自尊と韓国の世界遺産批判

高山正之氏が週刊新潮の連載コラム「コロナ外交」で論じた、欧州と日本の製鉄史、官営八幡製鉄所、釜石、軍艦島、三池港の発展をたどる。
欧州諸国が相互に技術を競い合った一方、日本は独力で近代製鉄を築き上げた。
明治日本の産業革命遺産をめぐる韓国の批判と、歴史問題を外交交渉の材料にする手法について考察する。


2020年7月13日
製鉄の歴史を見ると、さまざまな国が互いに技術を競い合った欧州が、つくづく羨ましくなる。
鉄作りは、まずスウェーデンが木炭高炉を発達させ、それが欧州各国へと広まっていった。
しかし、そこで生産できたのは炭素含有量の多い銑鉄であり、鍛冶職人が鉄を叩きながら脱炭するのが一般的な方法だった。
以下は、「コロナ外交」と題して、週刊新潮2020年7月9日号に掲載された高山正之氏の連載コラムをもとにした論考である。
高山正之氏と櫻井よしこ氏の連載コラムは、毎週、週刊新潮の掉尾を飾っている。
私は、この御両名の論考を読むために、毎週、週刊新潮を購読していると言っても過言ではない。
本稿もまた、高山正之氏が戦後日本において唯一無二の存在であると私が評価する理由を、鮮明に示している。

欧州諸国が競い合って築いた製鉄技術

製鉄の歴史を見ると、さまざまな国が寄り集まり、互いに技術を競い合った欧州が、つくづく羨ましくなる。
近代的な鉄作りの出発点の一つとなったのは、スウェーデンで発達した木炭高炉だった。
この技術は欧州各国へと広まった。
しかし、木炭高炉で生産されるのは、炭素含有量の多い銑鉄である。
それを鍛冶職人が何度も叩き、炭素を取り除くことで、道具や武器に使用できる鉄へと加工していた。
製鉄技術の歴史は、鉄に含まれる炭素を、いかに適切な量まで減らすかという試行錯誤の歴史でもあった。
英国では、木炭よりも高温を得るために石炭が使われるようになった。
さらに18世紀には、エイブラハム・ダービーらによってコークスを利用する製鉄法が発展し、より大量に鉄を生産する道が開かれた。
鉄製の橋も盛んに架けられた。
しかし、当初の鉄は強度が十分ではなく、橋が崩落する事故も起きた。
より炭素含有量が少なく、強度の高い鋼鉄を大量に生産できないか。
欧州各国の技術者たちは、その課題に挑戦した。
英国のヘンリー・コートは、炉の中で溶けた銑鉄を攪拌し、脱炭を促進するパドル法を発達させた。
ドイツのシーメンスとフランスのマルタンは、平炉に高温ガスを送り込む方法によって、鋼鉄の大量生産を可能にした。
英国のヘンリー・ベッセマーは、溶けた銑鉄に空気を吹き込み、炭素を燃焼させて鋼鉄に変える転炉法を開発した。
各国は、他国の技術を学び、改良し、さらに新たな技術を生み出した。
コークスの製造に無煙炭を用いれば、炭素以外の不純物も相当程度取り除けることが分かってきた。
高山氏は、無煙炭の産地である中国、ベトナム、インドなどが欧州諸国によって植民地化、あるいは勢力下に置かれていった背景には、こうした鉱物資源への関心もあったと論じている。
欧州諸国が製鉄技術を競い合い、急速な発展を遂げたのは19世紀半ばである。
それは、日本では幕末から明治維新にかけての時代に当たる。

日本には技術を競い合える隣国がなかった

日本にも、中国大陸と朝鮮半島という隣接地域が存在していた。
しかし、英国人旅行家イザベラ・バードが当時の中国や朝鮮半島を訪れて記録したのは、近代製鉄技術を競い合う社会ではなく、衛生環境や社会制度の深刻な立ち遅れだった。
欧州諸国のように、隣国同士が新しい製鉄技術を持ち寄り、互いに改良し合う環境は、日本の周囲には存在しなかった。
日本は、自らの力で近代製鉄への道を切り開かなければならなかったのである。
その手掛かりとなったのは、長崎の出島を通じて、わずかに流入してきた西洋の科学技術情報だった。
特に参考にされたのが、オランダ人技術者ヒューゲニンによる大砲鋳造に関する書物である。
薩摩藩主の島津斉彬と、南部藩士の大島高任は、木炭高炉による製鉄に挑戦した。
幕府、水戸藩、長州藩、鍋島藩なども反射炉を建設した。
しかし、幕末から明治維新をまたいで行われた多くの試みは、必ずしも成功しなかった。
幕府が建設した韮山反射炉も、青銅製大砲を鋳造することはできたが、近代的な鋼鉄生産に直ちに結び付いたわけではなかった。
その中で、大島高任が関わった釜石の高炉は、地元で良質な鉄鉱石を採取できたこともあり、国産鉄の生産に一定の成果を上げた。
明治政府は大島高任を岩倉使節団に加え、欧州の製鉄事情を視察させた。
近代日本の指導者たちは、欧州の技術をただ模倣するのではなく、日本の条件に適合させ、自らの技術として完成させようとしていたのである。

「鉄は国家なり」を実感した日本

明治28年、すなわち1895年、日本は日清戦争を戦った。
しかし、その戦争で使用された兵器の多くは外国製だった。
日本は戦争を通じて、国家の独立と安全保障にとって、鉄鋼生産能力が不可欠であることを痛感した。
「鉄は国家なり」といわれる意味を、日本は現実の問題として理解したのである。
そこで明治政府は、官営八幡製鉄所の建設に着手した。
外国から石炭高炉、シーメンス式平炉、ベッセマー転炉などを購入し、ドイツ人技術者の指導を受けて設備を組み立て、操業を開始しようとした。
しかし、何度火入れしても、期待したような結果は得られなかった。
外国から最新設備を購入し、外国人技術者を招いただけでは、日本の鉄鉱石や石炭に適した製鉄は実現できなかったのである。
政府は、やがてドイツ人技術者への依存を改めた。
釜石や韮山などで経験を積んできた日本人技術者たちに、製鉄所の再建を託した。
日本人技術者たちは、炉の構造を改造した。
鉄鉱石の選別方法を見直した。
良質なコークスの原料となる石炭を全国で探した。
その過程で、長崎港沖の高島や端島で産出する良質な石炭が注目された。
軍艦島の通称で知られる端島では、早い段階で電化が進められ、電動モーターを使用した海底炭鉱の掘削が行われた。
こうした日本人技術者と労働者の努力によって、明治36年、すなわち1903年、日露戦争の前年に、日本は銑鉄から鋼鉄までの一貫生産に成功した。
それは、外国の設備を並べただけの成功ではなかった。
設備を日本の条件に合わせて改造し、原料を探し、失敗を重ねながら、日本人自身の手で実用化した成果だった。

三池港と団琢磨が示した日本の技術力

明治41年、すなわち1908年には、三池に閘門式の港が完成した。
三池港周辺では、潮の干満差が約5メートルにも達する。
大型船を安定して接岸させ、石炭を積み出すためには、水位を調整する閘門が必要だった。
この港を設計したのが、三井財閥の指導者であり、技術者でもあった団琢磨である。
三池港の閘門は、米国のパナマ運河の閘門よりも早く完成した。
しかも、建設から長い年月を経た現在も、機能する産業施設として存在している。
釜石、八幡、三池、高島、端島などに残された産業遺産は、単なる古い工場や炭鉱ではない。
欧州のように近代技術を競い合える隣国を持たなかった日本が、自ら情報を集め、試行錯誤を重ね、独力で近代産業国家を築き上げた証しである。
明治日本の産業革命を支えた人々の気概と技術は、やがてユネスコ世界文化遺産として登録された。
関連資料を展示する施設も開設され、日本の近代化がどのように成し遂げられたのかを後世に伝えることになった。

世界遺産登録をめぐる韓国の主張

ところが、世界遺産登録をめぐって、韓国政府は日本側に対し、朝鮮半島出身者についても説明するよう要求した。
高山氏は、明治期の日本の産業革命を中心とする世界遺産に対して、後の昭和期における朝鮮半島出身労働者の問題を結び付けること自体に、時間軸の混同があると指摘している。
韓国側は、端島で朝鮮半島出身者が過酷な労働を強いられ、「地獄を見た」と主張してきた。
一方、高山氏は、昭和期に端島で働いた朝鮮半島出身者が存在したこと自体は認めながらも、住居や賃金が与えられ、生活施設も設けられていたとして、韓国側が提示する一面的な説明に疑問を呈している。
この問題については、労働の募集形態、戦時期の制度、賃金、生活環境、本人の意思などを、個々の資料に基づいて慎重に検証する必要がある。
しかし、歴史的事実の検証とは別に、世界遺産登録を外交交渉の材料として利用し、日本側に一方的な表現を受け入れさせようとする手法については、厳しく検討されなければならない。
世界遺産登録の際、韓国側は、朝鮮半島出身者の労働について一定の説明を加えるならば登録に賛成するという姿勢を示した。
日本側は、その条件を受け入れた。
しかし、その後も韓国側から要求が繰り返され、表現や展示内容をめぐる対立は収束しなかった。
一度譲歩すれば、それによって問題が解決するのではない。
その譲歩が、新たな要求の根拠として利用される。
高山氏は、そのような韓国外交の手法に対して、強い警戒を示しているのである。

歴史問題を外交上の取引材料にしてはならない

歴史的事実は、一次資料と客観的な検証に基づいて明らかにされるべきである。
一国の政治的主張や外交上の圧力によって、事実が書き換えられてはならない。
明治日本の産業革命遺産は、日本が欧州諸国の技術を学びながらも、数多くの失敗を乗り越え、日本人技術者と労働者の力によって近代国家を築いた歴史を示している。
それを、後世の政治的要求によって、単一の否定的物語に塗り替えることは許されない。
もちろん、産業化の過程で働いたすべての人々の実態を調査し、負の側面を含めて説明することは必要である。
しかし、それは日本だけを一方的に断罪するために行われるべきものではない。
事実を明らかにするために行われなければならない。
韓国政府との外交において、日本側が譲歩を重ねれば問題が解決するという考えは、これまで繰り返し裏切られてきた。
一つの要求を受け入れると、それが次の要求の出発点になる。
相手の政治的要求に安易に応じることは、将来に禍根を残す。
高山氏は、韓国との外交を新型コロナウイルス対策になぞらえ、日本人の精神衛生のためにも「8割減」にすべきだと結んだ。
それは文字どおり国交を断つという提言ではない。
歴史問題を利用して日本を非難し続ける相手に対して、必要以上に反応し、譲歩し、振り回される外交をやめるべきだという、痛烈な比喩である。
日本は、事実に基づいて反論すべきときには反論しなければならない。
不当な要求は拒否しなければならない。
そして、明治の人々が築いた産業遺産と、日本近代化の歴史を、自らの言葉で世界に発信し続けなければならないのである。

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