ミトロヒン文書が暴いたKGBの対日工作――政界・官界・産業界・マスメディアへの浸透と、中国の対日影響工作への警告

2018年4月10日に発信したミトロヒン文書に関する論考を再掲載する。旧ソ連KGBが日本の政界、官界、産業界、マスメディアに対して行った工作活動を、クリストファー・アンドリューとワシリー・ミトロヒンによる『The Mitrokhin Archive II』などを手掛かりに検証し、外国勢力による情報工作・世論工作に対する日本社会の脆弱性と、中国の対日影響工作への警戒を訴える。

2020年8月11日
2018年4月10日に、「このミトロヒン文書は、ソ連KGBの諜報活動についての、文字通り『最上級の超一級史料』である」と題して発信した章を、ここに再発信する。
理由は明確である。
私は、現在の中国が日本に対して展開している情報収集、世論形成、政治的影響力の行使などについて、日本国民は旧ソ連時代のKGBによる工作活動以上の警戒心を持たなければならないと考えているからである。
これは、中国の対日工作が旧ソ連を「遥かに凌ぐ」と数量的に立証したという意味ではない。
2020年8月11日時点で私が国際情勢と日本国内の状況から抱いていた、極めて強い危機認識である。
その原点として、改めてミトロヒン文書を読み返す必要がある。
【ミトロヒン文書とは何か】
ワシリー・ミトロヒンは、旧ソ連KGBで長年勤務し、KGB第一総局の膨大な文書に接することのできた人物である。
彼は1970年代から1980年代にかけて、KGBの機密資料を秘密裏に書き写し、膨大な手書き資料を自宅に隠していた。
ソ連崩壊後の1992年、英国情報機関の支援によって英国へ移った際、この資料群も英国側へ渡った。
原文では「6つの大きなコンテナに詰め込んだ機密文書を持ち出した」と記したが、正確には、KGB原本そのものではなく、ミトロヒンがKGB資料から長年にわたって書き写した大量の手書きノート類である。
英国へ移送された資料は6箱規模に及ぶ膨大なものだった。
その内容は英国情報機関によって分析され、さらに諜報史研究の第一人者であるケンブリッジ大学のクリストファー・アンドリュー教授が研究に参加した。
その成果の一部は、アンドリューとミトロヒンによる『The Mitrokhin Archive』、そして『The Mitrokhin Archive II: The KGB and the World』として公刊された。
そこには、世界各国でKGBがどのような諜報活動、政治工作、情報操作、産業スパイ活動を展開していたのかが記されている。
そして、その中には日本を扱う章も存在する。
【日本に対するKGB工作】
日本に関する記述では、政党、官僚組織、産業界、そしてマスメディアに対するKGBの活動が扱われている。
原文で紹介した資料によれば、日本社会党や日本共産党など政治勢力への働きかけ、日本政府機関からの情報収集、外務省関係者への接触、産業技術情報の獲得など、多方面にわたる活動が記録されているという。
つまり、工作対象は政治だけではなかった。
外交。
行政。
産業。
技術。
そして世論。
国家の意思決定に影響を与え得るあらゆる場所が対象になっていたのである。
【マスメディアは重要な工作対象だった】
私が特に重要だと考えたのが、日本のマスメディアに対するKGBの工作である。
ミトロヒン資料について紹介された記述では、1970年代にKGBのエージェントとして扱われていた日本人ジャーナリストのコードネームとして、少なくとも次の名が挙げられている。
朝日新聞記者とされる「BLYUM」。
読売新聞記者とされる「SEMYON」。
産経新聞記者とされる「KARL」または「KARLOV」。
東京新聞記者とされる「FUDZIE」。
日本の主要紙政治部の上席記者とされる「ODEKI」。
ここで注意すべきなのは、これらはミトロヒン資料に記録されたコードネームと所属に関する記述であり、現在の特定の記者を根拠なく結びつけてよいものではないということである。
しかし、旧ソ連のKGBが、政治的立場の異なる複数の日本の新聞社を工作対象としていたという点は極めて重要である。
朝日新聞だけではない。
読売新聞も。
産経新聞も。
東京新聞も。
外国情報機関から見れば、「右」か「左」かではなく、情報と世論に影響力を持つ人間であるかどうかが重要だったということではないか。
【朝日新聞に対するKGBの評価】
原文で紹介した資料では、KGBが朝日新聞に大きな影響力を持っていたとの趣旨の記述も紹介されていた。
そこから当時の論考は、コードネーム「BLYUM」とされた人物が社内で一定の影響力を持っていた可能性や、複数の接触対象が存在した可能性を論じている。
もちろん、こうした史料を読む際には慎重さが必要である。
KGB内部文書やミトロヒンのノートに「エージェント」と記載されていることと、その人物がどの程度意識的にKGBへ協力していたかは、必ずしも同義ではない。
情報源。
協力者。
秘密協力者。
意図的なエージェント。
本人が相手をKGBと認識していなかったケース。
これらは区別して検証する必要がある。
しかし、その慎重さを理由に、外国情報機関による日本メディアへの働きかけそのものを無かったことにするのも誤りである。
【31人のエージェントと24件の秘密協力関係】
原文で紹介した記述によれば、1972年秋までに東京のKGB「LINE PR」関係者が31人のエージェントを抱え、24件の秘密協力関係を持っていたとされる。
LINE PRとは、政治的情報収集や影響工作などを担当したKGB内部の活動系統を指すとされる。
日本は当時も新聞購読率が高く、新聞が国民の政治認識や国際情勢認識を形成する力は極めて大きかった。
その日本で新聞記者を通じて偽情報やソ連側に有利な情報を流すことができれば、個々の記事だけでなく、日本社会全体の認識に影響を与えることができる。
情報工作とは、必ずしも「嘘の記事を書け」と直接命令することだけではない。
どの情報を与えるか。
どの情報を隠すか。
何を重要な問題として認識させるか。
誰を信用させるか。
誰を敵視させるか。
その積み重ねによって、社会の認識そのものを変えることができる。
【記者は情報工作だけでなく情報収集にも使われる】
マスメディア関係者には、政治家、官僚、政府高官などへの取材を通じ、一般国民には得られない情報へ接触できる者がいる。
KGBは、その特性も利用していたとされる。
原文では、1962年から1967年にかけて活動した東京新聞のジャーナリスト、コードネーム「KOCHI」が、政府内部に関する相当程度の情報へアクセスしていたとの記述を紹介した。
たとえ国家機密そのものではなくても、政府高官の考え方、人間関係、交渉姿勢、内部の対立などは、外国政府にとって価値ある情報になり得る。
記者は報道する人間である。
同時に、取材によって情報を収集する人間でもある。
外国情報機関がそこに目を付けるのは当然なのである。
【新聞記事そのものが情報伝達手段になる】
さらに原文では、コードネーム「ROY」とされたジャーナリストが書いた記事が、諜報情報の連絡に有用だったとの趣旨の記述も紹介した。
新聞記事そのものが情報伝達や確認の材料になり得るということである。
そして、メディア内部の協力者は、新たな協力者を紹介する役割まで担ったとされる。
ROYが別の人物「KHUN」の獲得に協力したとの記述も紹介されていた。
工作網は、一人を獲得して終わるのではない。
その人物の人脈を通じて次の人物へ接近する。
それによってネットワークが広がっていく。
【人はなぜ外国情報機関に協力するのか】
ミトロヒン資料をめぐる記述では、メディア関係者の協力動機として金銭が重要だったとされる。
最初は食事を共にする。
情報交換をする。
相手が費用を負担する。
やがて金銭や便宜を受け取る。
そして関係が深くなる。
外国情報機関による工作は、最初から「スパイになれ」と迫るとは限らない。
人間関係の延長として徐々に境界線を越えさせる方法がある。
一方、金銭だけではない。
弱みを握る方法もある。
原文では、読売新聞記者とされたコードネーム「SEMYON」が、1970年代初頭のモスクワ滞在中に、闇両替や私生活上の行動などを材料に協力を迫られたとする記述を紹介した。
いわゆるコンプロマートである。
金。
思想。
名誉欲。
人間関係。
性。
違法行為。
弱み。
外国情報機関は、人間が持つ様々な脆弱性を利用する。
【日本のマスメディアは外国工作に十分警戒してきたのか】
私が2018年にこの文章を書いた最大の理由は、ここにある。
日本のマスメディアは、外国政府や外国情報機関が日本に悪意を持って工作する可能性について、あまりにも警戒が薄いのではないか。
戦後日本では、「外国が日本社会を操作しようとする」という発想そのものを陰謀論として退ける傾向が長く存在してきた。
しかし、ミトロヒン文書が示す旧ソ連KGBの活動を見れば、外国による世論工作、政治工作、メディア工作は空想ではない。
実際に行われていた国家活動である。
もちろん、外国の主張と同じことを書く記者を見つけただけで「工作員」と呼んではならない。
中国に好意的だから中国の工作員だ。
ロシアに好意的だからロシアの工作員だ。
米国に好意的だから米国の工作員だ。
そのような短絡は許されない。
必要なのは具体的な証拠である。
資金。
接触記録。
指示。
秘密協力。
情報提供。
利益供与。
そうした事実を一つずつ確認することである。
【北朝鮮関連団体をめぐる政治献金】
原文では、外国勢力と日本政治の関係を考える一例として、菅直人氏の資金管理団体「草志会」から、「政権交代をめざす市民の会」へ行われた政治献金にも触れた。
この点について数字を正確にしておく。
菅氏自身の資金管理団体から同団体への献金として確認されているのは、2007年から2009年までの計6,250万円であり、菅氏自身も献金の事実を国会で認めた。
原文で「民主党側から2億円を超える献金」と記した部分は、複数の民主党関係者や政治団体を含む議論と、菅氏本人の資金管理団体からの金額を区別する必要がある。
重要なのは、特定の数字を誇張することではない。
外国勢力との関係が疑われる政治団体、人物、組織への資金の流れが存在するならば、それを思想的立場にかかわらず報道機関が徹底して検証することなのである。
【そして、中国である】
2018年4月10日にこの文章を書き、2020年8月11日に再び発信した理由は、旧ソ連の話をしたかったからだけではない。
私が本当に警告したかったのは、中国である。
中国共産党政権は巨大な国家組織を持つ。
外交。
経済。
研究機関。
人的交流。
企業。
文化交流。
SNS。
インターネット。
大学。
地方自治体。
各種団体。
現代の影響工作に利用し得る経路は、冷戦時代とは比較にならないほど多様化している。
だからこそ、日本は「証拠がないうちから誰かを工作員と決めつける」愚を犯してはならない一方、「外国による工作など存在しない」と考える愚も犯してはならない。
ミトロヒン文書が教えているのは、そのことである。
民主主義社会は開かれている。
報道の自由がある。
政治活動の自由がある。
学問の自由がある。
外国人との交流も自由である。
それらは守られなければならない。
しかし、その自由を外国の独裁国家や情報機関が利用する可能性も同時に存在する。
自由を守るためには、自由を利用して自由そのものを破壊しようとする活動に対する防御が必要なのである。
【報道機関自身が問われている】
政府が報道内容に介入することには、最大限慎重でなければならない。
報道の自由は民主主義の根幹だからである。
しかし、それは外国情報機関との秘密協力や資金提供の疑いまで報道の自由の名の下に放置せよという意味ではない。
具体的な証拠が存在するならば、政府、国会、司法、報道機関自身が検証すべきである。
そして何より、新聞社やテレビ局自身が、自社の記者や社員が外国政府、外国情報機関、外国系団体とどのような関係を持っているのかについて、厳格な倫理基準と透明性を持つ必要がある。
権力を監視するメディア自身もまた、外国権力からの影響について検証されなければならない。
ミトロヒン文書は過去の話ではない。
現代日本に対する警告なのである。

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